Identity


突然ですが、みなさんは自分のアイデンティティとはなんだろう?と疑問に思った事はありますか?以前の記事にも書きましたが、アイデンティティとは簡単に言えば、「自分は何者か?」と言う事です。例えば私だと、日本人、女性、長女、講師、40代、離婚者、内向的、中流、異性愛者、無宗教などが私のアイデンティティと言えます。要は、自分の属しているグループ、もしくは分類されているグループが自分のアイデンティティの元になると言えます。

でもだからといって、自分が分類されるグループのアイデンティティが自分の一部だと思うとは限りません。例えば、女性でも男性の心を持っていれば自分のアイデンティティは女性でなく男性と思うでしょうし、会社で働いていても、そこで働くのが好きでなければ、そこの会社員、というアイデンティティは自分の中では認めないかもしれません。要は、アイデンティティとは、「自分とは何者か」という主観的な「自己観」なので、人が自分をどう分類しようと関係なく、自分がどう思うかが重要なのです。

このアイデンティティの面白いところは、状況や場所によって自分で意識するアイデンティティが変わってくるということです。例えば、私はアメリカ人といると、「自分は日本人だ!」、という事を強く意識します。また、全員男性のグループの中にいると自分が女性だと言うことを強く意識します。逆に、日本人だけの中にいると自分は日本人と意識する事はなく、また女性のグループの中にいる時に「自分が女性だ!」と強く認識する事もありません。つまり、「今いる状況と一番違う自分のアイデンティティ」を一番強く意識するのです。

以前の記事にも書きましたが、社会心理学で有名な、マーカス博士と北山博士が提唱した説で、「文化的自己観の違い」、というものがあります。彼らは、「自分は何か」という概念は文化によって変わる、というのです。
その彼らが提唱した二つのうち一つのタイプが「相互独立的自己観」(independent self-construal) 、もう一つは「相互協調的自己観」(interdependent self-construal)です。

「相互独立的自己観」(independent self) とは:
アメリカのように個人主義の文化で多い自己観。「状況や背景と切り離した自己」、という概念なので、どんな場面でも自分は変わらない。どこに行ってもボブはボブだし、サラはサラ。そしてどこでも(例えば職場でも家でも)同じ態度なので、どこに行っても大抵同じような性格と認識される。そして「自分の性格」というものが確固としてある。(良い意味で自分があるが、悪い意味で状況に適応する柔軟性がないとも言える)

「相互協調的自己観」(interdependent self)とは:
日本のように集団主義の文化で多い自己観。「状況や背景の一部の自己」という概念なので、状況によって自分が変わる。例えば子供のクラスの集まりでは「~さんのお父さん」、近所では「~さんの奥さん」などとなる。周りに合うように態度を変える(例えば職場と家では全然違う態度を取る)為、場所や状況によって全然違う性格と認識されたりする。そして、態度は変われども、どれも自分である事には変わりない為、自分でもどれが本当の性格なのか良くわからなくなる。(良い意味で柔軟性があるが、悪い意味で自分がないとも言える)

この理論を踏まえて考えると、はっきりとした自分のアイデンティティを持っていて自分の性格が分かっているアメリカ人(それが良いか悪いかは別として)と比べ、日本人が「自分がどういう人間なのか、どういう性格なのか分からない、もしくは分かりづらい」、というのも納得がいきます。つまり、文化的に自分を状況によって変える事が普通だし、どの状況の自分も自分には変わりないので、どれが本当の自分か分からなくなってしまうんですね。でも、どちらの文化の自己観も良し悪しがあり、日本人は日本人の良さがあるので、無理してまで西洋的に自分を確立したり性格を決めつける事をしなくても良いと思ったりもしますが。。。

ちなみに私も自分のアイデンティティについて疑問に思う事があります。私は日本で生まれ、日本人として(中学と大学以外は)日本で育ちました。そして現在アメリカに住んでいても、普段は「私は日本人!」と胸を張って言っており、自分でも自分は日本人だと思っています。ですが、最近たまに日本に帰った時に、日本の習慣や日本人の行動に慣れずに「本当に自分はこの日本人というグループに属しているのか?」と思う時があるのです。

人生の約半分を海外で過ごした人なら分かるように、ここまで日本を離れてアメリカ在住歴が長くなると、アメリカにいても完ぺきにアメリカ人ではなく日本に行っても完ぺきに日本人ではない、つまりどちらの国にも属しないように感じてくるのです。日本語も忘れてくるのに、だからといって英語も完ぺきではなないという、どちらも中途半端な感じと似ています。どちらの国にも受け入れられないような気がするからでしょうか、私はたまにそれをちょっと寂しく思い、心許なくなったりするのです。

この話をアメリカ人のゲイの男性にしたところ、彼は生まれてずっとアメリカに住んでいるけれども、いつも自分はどこにも属しないような疎外感を感じていた、と言っていました。それを聞いて、「そうか、自分の生まれ育った国でも疎外感を感じることがあるんだ」、と思った時に、アメリカのマイノリティ(黒人、ヒスパニック、ゲイなど)の気持ちがちょっぴり分かったような気がしました。そして、その解決策として彼は「自分はどこかに属さなくてもいい、自分は自分であればいい」、という風に言っていましたが、何故かちょっと寂しそうな感じがしたのは気のせいでしょうか。

私のこの「どちらの文化からも疎外感を感じる事」に対して他のアメリカ人も、「別に自分が属するグループがなければないで、自分は自分でいればいいじゃないか」と言ってきます。でも、このような「自己が確立していれば集団に属しなくても良い」、というような個人主義の考えは、集団主義の家族のような良さ(それがうっとうしいと思う時もあるとは思いますが)を知っている私にとっては、やはり時にちょっと物足りなく感じるのです。

また、自分が心の底から信頼できるグループがなく、そこまで人に心を開かず弱みを見せないように生きている個人主義の文化だから、アメリカでは精神を病んでいる人が多いのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか?





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